「弱いつながり」と夏の光
この夏は、独立して最初の夏だった。ひとりでデザインの仕事を回す毎日で、外に出るのは近所のドラッグストアやスーパーくらい。過集中癖があるため、目の前の作業に取り組んだあと、ガクッと気絶したように眠る。そんな日々。
ふと目を開けると、遮光カーテンの隙間から真昼の陽射しや夜明けの光が細く差し込み、その白い筋をぼんやり眺めた。
そんなとき、数年前に買った東浩紀さんの『弱いつながり』を本棚の奥から取り出して、読み返してみた。以前はピンとこなかったが、今は胸に響く言葉が多かった。東さんは「移動すると新しい景色が見える」と書いている。旅行や冒険だけでなく、見慣れた町を少し歩くだけでも視界は変わるという話だ。けれど、近所や見慣れた町はおろか、ほとんど家から動かない自分には関係ない気がしていた。
読み進めるうちに、移動は距離だけでなく見方のずれでも起きているのかもしれないと思った。朝は白、夕方はオレンジ……その間にも細かな光の変化やグラデーションがあって、カーテンの隙間から差す光の色が変わるだけで、同じ部屋でも世界は違って感じる。反射するホコリも、庭の伸び放題の雑草も、光の加減でやわらかく見える瞬間がある。小さなことでも、見え方が変わればそれが移動なのかもしれない。
東さんはまた「偶然の出会いが人生を広げる」とも書いている。予期しないつながりが誰かを救うこともあると。本では海外旅行や見知らぬ人との接点の例が多いが、自分にも当てはまった。計画性の世界である“強い絆”が苦手で、家族とのつながりが薄く、友人も積極的に限定してしまう自分にとって、かすかに差し込むような人との関係がどれほど大きいか。独立を気にかけて連絡をくれる先輩、なにかと進捗を知らせてくれる編集者、著者との出会いや思いがけない人からの依頼。“弱い絆”は偶然性の世界であり、その知らせだけで窓の外の景色が少し明るく感じられる。
そしてもうひとつ、誰にどう届くかは制御できないという郵便的な諦観が残った。そもそも届くかわからない手紙が思いがけない誰かに届くように、僕たちの言葉やふるまいも予想しない形で届く。宛先や意図とずれて届くこともあるが、それこそが偶然の価値であり、相手の中で新しい意味を生む。花火大会の夜、友達にかけた何気ない「ありがとう」が涙に変わった場面があった。理由は全部わからなくても、その人に届いたのだと思う。人は完全にはわかり合えない。だからこそ、わからないまま差し出すしかない。これが東さんの言う「郵便的」な世界観なのだろう。
家にいる時間が長いと弱いつながりは生まれにくい。けれど本を読むことも、メールを送ることも、時間や場所を超えて誰かと出会う移動。べつに、いま、大きな変化があったわけではない。求めてもいない。
毎年、夏の光はあっという間に移ろうが、その色は目に焼きつく。弱いつながりも同じで、かすかな出会いややりとりが未来のどこかでまた光るかもしれない。独立して最初の夏に読んだこの本が、これからの日々の中でまた響くといいなって、そうぼんやりと想いながら、今日もカーテンの隙間を見ている。
2O25.O8.31 夏休みの読書感想文「弱いつながり」